ふー

精神科と代謝内科、整形外科のお世話になっています。

真夜中の時間の過ごし方

このところ体調は良好なのだ。
日中は畑仕事やら、物置小屋の整理作業などを順調にこなしている。
そして、昨夜こそ11時頃寝たが、入眠時刻は7時~8時30分ぐらい。
9時前はほとんど安眠時間だ。


夜中に何度も起きていた頻尿も治まりつつある。
が、真夜中に、今朝の場合は2時過ぎだが、起きてしまう。
ひとつは小便、これは仕方ない。
そしてスッキリ爽やか、眠気が来ない。
無理に寝ようとすれば、際限のない妄想が入眠を邪魔してしまう。
おまけに悪夢にうなされる。


夢のパターンは大体同じ。
スッキリしないのだ。
夢を見るが、毎回違う。
登場人物も、シナリオも、設定も、場所も、時間も、毎回違う。


ひとつだけ変わらないものがある。
それは、夢の中でも私は私。
常に主人公なのだ。
困った。
困っている。




時々登場するのが、美女。
日頃欲求が満たされない独身貧民の私には、最高の設定だ。
口説く。
私なりの方法で口説く。
稀に成功する。
いわなもがずだ。


美女の設定はその都度変わる。
実在の美女だったり、初めての出会いだったりする。
実在が現れたときは、相手によってひどく動揺することがある。
まっぽしだったときだ。
これはまず口説き落とせない。
できていたら、たとえ夢の中ででも、私の人生はこんなハズじゃなかった。


初めて会った美女だったときは、まず、ほのかな恋心を抱く。
そのパターンによって、激しく責めるとき、ほのかなままですれ違うときがある。
要は好みか。
私も一応、絶世の美女と一戦交えたいという下心は充分ある。
しかし、実績から観れば、そんな美女と縁があるわけではなく、実にほのぼのとした野草の類いしか出会ったことはない。


夢の中でも恋が成就するとき、目を覚ますと、何とも言えない恋の余韻に浸っている自分がいる。
恋は喜びなのだ。
そして私にとっては、あこがれなのだ。
自分の思いが通じるという快感は、なかなか実生活では味わえない、貴重なものだ。


老いらくの恋というものがあるそうだ。
私も「じい」を名告っている。
当然、若くはない。
しかし、「じいさん」と呼ばれても、まだ「爺さん」ではないだろうと密かに抵抗をしている。
母の昔話、自分の祖母さんが、「年は八十、気は十八」とつぶやきながら、我が家を訪問してくれていたらしい。
同感。
私はまだ八十路には遠いが、遠いと思っているが、「気は十八」には激しく同感する。


老いらくの恋におぼれてみたい、と思っている。
そんな欲があるのだから、まだ、私は若いなと思う。
テレビでも言っている、「何かを始めるのに遅すぎると言うことはない」と。
確かにそうなのだ「今日が一番若い」のだ。
若いうちに頑張らなきゃ。


美女は私を惑わす。
都合上「美女」と書いているが、あばたもえくぼなのだ。
惑わされ続けてン十年、私の運命の人はまだ現れない。
まだ出会っていないのか、気付いていないだけなのか。
悩む。
悩み続けて、棺桶の中でも悩み続けるのではないかと心配している。
そうならないことを願う。
生き世のことは生き世のうちに、解決したい。



さて、たまーに、ここに書いている。
ネタがないわけではない。
毎日書くのがおっくうなだけ。
気分次第で書いている。
気分が乗ったとき、でもない。
時間があるとき、でもない。
思い出したとき、でもない。


体重記録やら、日記やら書いている。
でも、「思い」を書き付けることは少ない。
難しいなと思っている。
ときどき、日記などで吐露することもあるが、稀だ。


思いを巡らす、と言う。
思いは巡る、と思う。
思いの巡るスピードに、筆記は追いつかない。
遅々として筆は進まず、思いだけが駆け巡る。
そんな自分に、無理して書き留めることはない、と言い聞かせる。


時に、堂々巡りする。
時に、最果ての地まで馳せる。
時に憂い、時に泣く。
時に喜び、時に悲しむ。
巡らすのは自分の中だけ。
自己完結。


ただ、他人が加わることで、思いは揺れる。
自分ではない人、思いは異なる。
その違いを乗り越えてから理解が生まれる。
届かぬ思いもある。


望み、願い、祈り、届かぬことの方が多い。
神も仏もあるものかと、超越者をなじることもある。
それが人間なのかもしれない。




以上、今夜の堂々巡りでした。
次回をお楽しみに・・・・・。
いつになるか分からないけど。